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『マイ・バック・ページ』@新宿ピカデリー

 

 

 

川本三郎の原作『マイ・バック・ページ』(平凡社)をしっかり読んでから劇場へ。そしてユリイカの山下敦弘特集も熟読。(巻頭の「山下+向井」対談は読み応え抜群)ハードルは上がりまくっていました。

 

そのハードルを平気で超えてきました、この映画は。

 

ポイントは、原作の川本本人の甘ったるさを映画ではどう表現しているのか? そして、フィクションとして何を足して、何を引いたか? こんなことをつらつら思いながら劇場に入りました。

 

甘ったるさは、そのまま。というより妻夫木聡の童顔により、甘ったるさが倍増、といった感じです。

 

足された部分はたくさんありますが、一番大きなのは記者時代に潜入取材した部分のディティールでしょう。(これが大きく物語に影響を与えるのですが、ネタばらしになるため省略)

 

引いた部分は「腕章」です。殺人事件の証拠となる腕章。原作では腕章についてたっぷり筆が費やされます。映画ではほとんど話題にもなりません。あとはジャーナリスト魂。これが引かれています。ジャーナリスト精神の葛藤は映画ではほとんど描かれません。

 

ニンマリしたのは、主人公が川島雄三『洲崎パラダイス 赤信号』を観ているシーン。その冒頭シーン。「あんたもっとしっかりしなさいよ」と新珠三千代が三橋達也に説教するシーン。これはそのまま『マイ・バック・ページ』主人公にも跳ね返ってくる言葉です。センチメンタルな男に対しての。と、劇中で登場する映画と比べてみても・・・ただの悪趣味になりそうなのでやめます。

 

「本物」を目指した男2人の悲劇、そうまとめていいんでしょうか? もしくは「本物」になれなかった男2人。そもそも「本物」とは何なんでしょうか? この2人は自ら「本物」になろうともがきます。でも、「本物」とは自分からなりにいくものなのでしょうか? 「本物」は「コレができたら本物だ」と考えない人種のことなのでしょうか? 少なくとも最低条件ではあるでしょう。自称・天才がいかがわしいのと同様、自称・本物だって怪しいモノです。と分かっていても「本物」になりたい。そんな時代だったのでしょうか? 本当にそうでしょうか? <「本物」は「コレができたら本物だ」と考えない人種>だから敢えてそんなことを言わない、という本物だっていそうなものです。つまり、「本物かどうか」なんて誰にも分からないのです。誰にも分からないモノになりたい、という動機は無限に続きます。終わりは「死」だけです。死ぬことだけは「本物」だからです。本作で主人公は「死んだ」のでしょうか?(さっきから疑問ばっかりですが・・・)新聞記者としては「死んだ」はずです。解雇されるのですから。本物の新聞記者にはなれなかった・・・。それなのに生きている・・・。そのリアリティーだけが本物を生み出すのでしょう。つまり、「本物になれなかったことで本物になる」という自己矛盾。それすらもノスタルジーで甘ったるいと笑われる存在なのでしょうか? 違います。と私は断言します。