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『コクリコ坂から』@TOHOシネマズ渋谷

 

 

 

劇場は公開初日。お年寄りから高校生男子3人組、子供連れからアニメーションファンまで。様々な人々で溢れていました。

 

そんな光景はジブリ作品でしか見られないので、席に座っただけでちょっと幸せな気持ちになります。(ハリウッド大作には家族はほとんどいません)

 

つまり、日本人なら誰でも気軽に「観に行こうか」と思えるジャンルとして確立しているジブリ作品。宮崎駿の狂気が大衆を呼び寄せている、という事実に歪んだ日本社会を連想せざるを得なかった2000年代。

 

しかし、現在は2011年。宮崎駿は自分で企画し脚本を書き、息子の宮崎吾郎に監督を任せます。(本意ではないかもしれませんが)

 

キャッチコピーは「上を向いて歩こう」。(同タイトルの歌が劇中で2回流れます)

 

物語は少女と青年の恋愛を軸にして、1963年の横浜を舞台に進んでいきます。東京オリンピック前年の設定が、高度経済成長真っ直中の横浜を活気づけています。(この時代変更が、原作漫画からの大きな変更点の1つです)

 

プロダクションノートによると、宮崎駿の脚本にあった台詞の間にある「・・・」、つまり「タメ」を監督は削ってしまい、テンポのある会話に変更したそうです。そのスピードは成功していると思います。少女と青年の会話は、テンポを上げたことによって、現代の若者にも見える形になっています。これが「タメ」の連続だったら・・・重苦しい映画になっていたでしょう。これは腕力のある演出です。「タメ」で何かを語っているような気にする逃げの演出よりどれだけマシでしょうか。

 

印象的なシーンは映画冒頭です。

主人公・海が自宅で料理をしているシーン。

テンポよく、朝食を準備する海。料理家庭を丁寧に見せていきながら、その家庭環境の描写にもなっており、さらにメニューによって時代背景を知らせてくれる。そこにはヴォーカル入りの「朝食」という曲がかかっており、ミュージカル的な要素も入っています。

 

そして、家族全員で「いただきます」との発声。

「食」から始まる映画なわけです。

 

もう1つも「食」に関するシーン。

主人公・海がコロッケを青年にもらうシーン。(このシーンは脚本作りの際に、宮崎駿が実演して振り付けをしたシーンらしいです)

このコロッケのシーンが生み出されるのも、海がカレーを作ろうと思うが、お肉が冷蔵庫になく、買い出しにでかけるというエピソードからです。

 

「食」の映画といっても過言ではありません。

このように食事シーンが素晴らしい演出をされている場合、その映画は大成功と言い切ってしまいます。(ジョニー・トー監督と同じ。フード理論w)

 

付け加えるなら、アニメーションはどうしても物語の重要シーンなどのメインの動きに力を入れがちです。食事シーンなどはどうしても手を抜いてしまい、美味しそうな食事シーンのあるアニメは少ないです。思い出してください。例えば、サザエさんの食事シーンを。あそこのご飯を「食べてみたいな−」と思ったことのある人はほとんどいないはずです。

 

もちろん、食事以外にもたくさん素晴らしいカットはあるんですが、それもすべて食事のディティールあってこそ、と言い切りたい誘惑に駆られます。

 

とにかく「コクリコ坂」のご飯に注目です。

2011.07.17 UP

『ムカデ人間』

『ムカデ人間』@シネクイント

 

 

 

 

こんな映画です。

 

>ドイツ郊外の人里離れた屋敷を舞台に、数人の人間の口と肛門をつなぎ合わせた「ムカデ人間」の創造に心血を注­ぐマッド・サイエンティストと、彼の犠牲になった人間たちの恐怖を描く。

 

ホラーとコメディが紙一重、という作品は多いですが。今作もその例に漏れません。

 

シチュエーションが完全にコントなので(もちろん全編ホラータッチ。それがフリにもなっていると考えれば、コントの王道かもしれません)笑い所がしっかりとしているのが好印象です。

 

ある重要なシーンで、日本人ヤクザ演じる北村昭博が叫んだ一言により、ホラー映画とはいえ、劇場は爆笑に包まれていました。健全です。

 

「恐ろしさ」が「笑い」に変わって、最終的には「喜び」になっていました。

 

(最近、たまたま読んだのですが)スピノザは「喜び」をこう理解しています。

 

「喜びとは、精神がより大きな完全性へ移行するような精神の受動」である、と。

 

今作の主役であるマッドサイエンティストも「ムカデ人間」という完全性を求めます。喜びのために。

 

ホラーとコメディ、2つ合わせた完全性へ、少しでも向かっていこうとする意志を強く評価します。

 

『BIUTIFUL ビューティフル』@ヒューマントラストシネマ渋谷

 

 

 

 

タイトルからしてスペルが間違っていますがが、それが真実だ。そんな囁きにも聞こえます。

 

主人公演じるハビエル・バルデムは子どもにこう聞かれます。

 

「お父さん、ビューティフルってどういう綴り?」と。

 

そこでの答えがタイトルにもある「BIUTIFUL」なのです。ここでは間違ったスペルが親から子へと伝えられます。決定的な間違いを。

 

でも、このスペルが間違っているから何だっていうのでしょう。子どもにとって「美しい」とは「BIUTIFUL」なのです。それが子どもにとっての真実なのです。(まさにソシュール的です。シニファン=シニフェの関係ですね。子どもにとってどんなシニファンかは関係ありません。シニフェの中で生きているのですから)

 

しかし、この映画は「美しいとは何か?」を問うものではありません。そこが支持できる部分です。けっして偽善ではない。むしろ、押し出されるのは偽悪です。

 

偽りの悪として、主人公はバルセロナを彷徨います。

彷徨いながら、生と死を行き来します。

 

印象的なショットのつなぎが2つあります。

 

「中国人約30人の死体」→「コカインが氾濫するクラブ」

 

この2シーンがつながります。つながるんです。

 

もう1つ。

 

「家族団らん」→「海辺に浮かぶ死体の数々」

 

このショットも連続します。カットが切り替わったら、即「生と死」です。

 

通俗的な「生と死」を表現した露骨すぎるショットのつなぎである、という批判もできるでしょうが、そんなものクソ食らえです。断固支持します