WonderNotes 学生の可能性を可能にするポータルサイト ワンダーノーツ

『ハリー・ポッターと死の秘宝 PART2』@渋谷シネパレス

 

 

 

 

ファンの皆様には申し訳ないのですが、原作も未読、映画版もすべては観ていません。こんな状況でシリーズ最終作を観に行くことが間違っている、と自分でも分かっています。

 

劇場に向かった理由はただ一点。3D作品としての質を確認するためです。

なぜなら、前作『ハリー・ポッターと死の秘宝 PART1』のトラブルが気になっていたからです。というのも、PART1は3D作品と銘打たれていたのに「3Dへの変換が公開までに間に合わないので2Dになります」というお詫びの文章が公開前直前になって、劇場に貼られていたのです。

 

専門的なことは分かりませんが、PART1も3D用の撮影は行われていたのでしょう。ただし、3Dに変換できなかった。これは珍しいパターンだと思い、その「3D用に撮影はしたが、公開は2D」というPART1を観に行きました。「ここは飛び出す予定だったのかな?」というショットはいくつかあったものの、内容はほとんど覚えておらず、ただただ予定調和なストーリーへの憤りだけが残っています。驚くことに本当に何も覚えていません。

 

そこで、ようやくPART2が公開されました。シリーズ完結編にして初の3D。もはや、観るモチベーションは内容ではありません。3Dリベンジです。ハリポタを3Dで観たい。それだけでした。

 

結果・・・ハリーポッターは3Dであろうが2Dであろうが、僕の人生には全く必要ありません。1ミリも。

ただし、ヴォルデモートの造形は素晴らしいですね。あの鼻の潰れ感は、ファンタジーのボスとしては秀逸です。オススメです。

 

2011.08.11 UP

『スーパー!』

『スーパー!』@シアターN渋谷

 

 

 

あらすじだけ聞くと『キック・アス』と似た作品ですが、目指すところは全く違います。

 

普通の人である主人公がヒーローになりきる。そして、悪と戦う。

 

これが『キック・アス』と『スーパー!』の共通した設定です。

前者のヒーローはファンタジー追求型、後者のヒーローはリアリティー追求型、とひとまずは仮定できると思います。

 

象徴的なのは、主人公とヒロインの関係性です。

『キック・アス』では、高校生と11歳の少女。

『スーパー!』では、中年の親父と20代前半の女性。

 

<以下、ネタばれ注意>

『スーパー!』では2人は寝ます。

この関係性において、この物語が目指すリアルがはっきりとします。

エレン・ペイジは無残な姿であっけなく死亡します。

 

そう、メタヒーローモノとしてのファンタジーに回収しないという一点において、この作品はリアリティーを観る者に強います。

リアリティーを獲得するにはこうも迂回しなくてはならないのか、と途方にも暮れました。

 

ラストも素晴らしい。観るべきです。

 

『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』@シネマライズ

 

 

 

 

 

バンクシーの初監督作品です。

彼について詳しく知りたい方はユリイカ2011年8月号で「バンクシーとは誰か? 路上のエピグラム」という特集がありますので、ご一読をオススメします。ものぐさな方はコチラ。

 

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%BC

 

さあ、この映画はほぼ真ん中で反転します。

前半はティエリ−・グエッタという男がグラフィティ・アートの世界に飛び込み、それらをビデオカメラで撮影し続けます。ひょんなことからバンクシーと知り合い、世界で初めてバンクシーに密着取材をします。

後半はその撮影者ティエリ−が被写体となります。(ここからは誰が撮影しているのか曖昧になります)ティエリ−はミスター・ブレインウォッシュとしてアーティストに変貌し、その名の通り「世間をアートで洗脳」していくのです。その技はバンクシーそのものだったり、過去の芸術の模倣の模倣だったりします。

 

と、このように映画は前半と後半で反転します。ここで問題がああります。我々は後半のティエリ−を批判、もしくは笑うことができるのか、という問題です。バンクシーの唆しにより、アーティストの道に進んだティエリ−。控えめに言っても、彼の作品はすべてが欺瞞です。しかし、その一点において。その欺瞞によってのみ、観客は熱狂するのです。「これは素晴らしい芸術だ」と。映画の後半では、ティエリーの展覧会に来たお客がインタビューに答えます。構図はこうです。

 

「中身のない作品を見て、評判だけを頼りに『素晴らしい』と絶賛する」馬鹿な客を劇場で笑う我々。

 

この構図に無自覚な我々がそこにはいます。そう、笑っている対象はその客ではなく、自分です。ティエリ−の展覧会でコメントしているのは紛れもなく自分自身なのです。それを笑っている。自分を枠外に置いて。それすらも無自覚なままに。

 

例えば、です。このドキュメンタリー映画はイギリスの偉大なアーティスト・バンクシーの初監督作品となっています。ゆえに、我々は劇場に足を運ぶわけです。もし、この作品の作者が無名だったら?(もちろん、このドキュメンタリーは有名覆面グラフィティ・アーティストを扱う前提ですからそれはありえないのですが)バンクシーが名前を貸しただけだったら? すべては反転します。この映画を絶賛する観客は、ティエリ−のお客と何が違うのでしょうか。全く、全く同じ、どちらも我々なのです。

 

結論は、この映画はホラーだということです。

たちの悪い、それでいて笑えるホラーなのは間違いありませんが。