2011.08.10 UP
『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』
『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』@シネマライズ
バンクシーの初監督作品です。
彼について詳しく知りたい方はユリイカ2011年8月号で「バンクシーとは誰か? 路上のエピグラム」という特集がありますので、ご一読をオススメします。ものぐさな方はコチラ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%BC
さあ、この映画はほぼ真ん中で反転します。
前半はティエリ−・グエッタという男がグラフィティ・アートの世界に飛び込み、それらをビデオカメラで撮影し続けます。ひょんなことからバンクシーと知り合い、世界で初めてバンクシーに密着取材をします。
後半はその撮影者ティエリ−が被写体となります。(ここからは誰が撮影しているのか曖昧になります)ティエリ−はミスター・ブレインウォッシュとしてアーティストに変貌し、その名の通り「世間をアートで洗脳」していくのです。その技はバンクシーそのものだったり、過去の芸術の模倣の模倣だったりします。
と、このように映画は前半と後半で反転します。ここで問題がああります。我々は後半のティエリ−を批判、もしくは笑うことができるのか、という問題です。バンクシーの唆しにより、アーティストの道に進んだティエリ−。控えめに言っても、彼の作品はすべてが欺瞞です。しかし、その一点において。その欺瞞によってのみ、観客は熱狂するのです。「これは素晴らしい芸術だ」と。映画の後半では、ティエリーの展覧会に来たお客がインタビューに答えます。構図はこうです。
「中身のない作品を見て、評判だけを頼りに『素晴らしい』と絶賛する」馬鹿な客を劇場で笑う我々。
この構図に無自覚な我々がそこにはいます。そう、笑っている対象はその客ではなく、自分です。ティエリ−の展覧会でコメントしているのは紛れもなく自分自身なのです。それを笑っている。自分を枠外に置いて。それすらも無自覚なままに。
例えば、です。このドキュメンタリー映画はイギリスの偉大なアーティスト・バンクシーの初監督作品となっています。ゆえに、我々は劇場に足を運ぶわけです。もし、この作品の作者が無名だったら?(もちろん、このドキュメンタリーは有名覆面グラフィティ・アーティストを扱う前提ですからそれはありえないのですが)バンクシーが名前を貸しただけだったら? すべては反転します。この映画を絶賛する観客は、ティエリ−のお客と何が違うのでしょうか。全く、全く同じ、どちらも我々なのです。
結論は、この映画はホラーだということです。
たちの悪い、それでいて笑えるホラーなのは間違いありませんが。